トマトの起源と古代文明
トマトの起源は、南米アンデス山脈の高地にあるとされています。
紀元前数千年前から、インカ帝国などの古代文明の人々は、トマトを栽培し、生活に取り入れていたという証拠が見つかっています。当初は、観賞用や儀式用として扱われていた可能性が高いですが、次第にその栄養価や風味の良さから、食文化に根付いていったと考えられます。また、当時のトマトは、現在のものとは少し異なり、小さく、酸味が強かったと考えられています。
そして時期は不明ですが、中央アメリカのメキシコへと伝播し、そこで本格的な食用としての栽培が始まりました。
現在私たちが親しんでいるトマトの呼び名は、メキシコ先住民の言葉であるナワトル語の「トマトゥル」に由来しています。これは「膨らむ果実」を意味し、元々は食用ホオズキを指す言葉でした。
しかし、トマトと食用ホオズキは形状が似通っており、料理への使い勝手も共通していたことから、同じ名称で呼ばれるようになったと考えられています。
このように、トマトの歴史は、インカ帝国やアステカ、マヤなどの古代文明の栄枯盛衰とともにあり、長い年月をかけて、世界中の人々の食卓を彩る重要な作物へと成長を遂げてきたのです。
ヨーロッパへの伝播とトマト料理の普及
コロンブスのアメリカ大陸発見以降、トマトはヨーロッパに伝わり、徐々にその存在感を増していきます。
しかし、初期のトマトは、猛毒の植物「ベラドンナ」に似ていたことから【悪魔の実】と呼ばれ、観賞用植物として扱われることが多く、食用として普及するには時間がかかりました。
16世紀以降、イタリアでの飢饉をきっかけにトマトが食文化に定着し始め、様々な料理に活用されるようになりました。トマトの食用はイタリア料理に革命をもたらしたと言っても過言ではありません。
現在私たちがトマト料理を楽しめているのは、飢饉の時代に生きたイタリアの人々のおかげなのかもしれませんね。
日本へのトマト伝来:観賞用から食卓へ
16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパ人のアジア進出とともに、トマトは東洋へとその足跡を広げました。
日本への伝来は17世紀半ば頃とされており、当初は観賞用として珍重されていたようです。
その証拠として、江戸時代初期の絵師である狩野探幽が1668年に「唐なすび」と称してトマトをスケッチに残していること、また本草学者・儒学者の貝原益軒が『大和本草』(1709年)においてトマトを「唐ガキ」として紹介していることが挙げられます。
これらの記録は、当時の日本においてトマトが珍しい植物として認識されていたことを示唆しています。
画像出典:東京国立博物館研究情報アーカイブス
トマトが日本の食卓に上るようになったのは、明治時代に入ってからでした。
キャベツやタマネギなどの西洋野菜とともに、欧米からあらためて導入され、食用として広く普及していきました。
今日、私たちが手軽に食卓で味わっているトマトは、遠い異国の地から、観賞用として始まり、食用へと進化を遂げた歴史を持つ、グローバルな野菜なのです。
世界への拡散と品種改良
ヨーロッパで受け入れられたトマトは、その後、世界各地へと広がっていき、気候や土壌条件に合わせた品種改良が進みました。
例えば、日本では酸味と甘みのバランスが良い「桃太郎」や、濃厚な甘みが特徴の「フルティカ」など、世界中で大きさ・色・形・味など、多様な特徴を持つ様々なトマトが誕生しました。
また、温室栽培技術の進歩により、一年を通してトマトを収穫できるようになり、私たちの食生活に欠かせない存在となっています。
トマトの品種改良は現在も進められており、より高品質で、病気に強い品種が次々と開発されています。将来的には、さらに多くの新しい品種が登場し、私たちの食卓をさらに豊かにしてくれるでしょう。
まとめ
この記事では、トマトの歴史を、原産地である南米アンデス山脈から日本の食卓に届くまで、古代文明から現代までの道のりをたどりながら紐解きました。これからもトマトは人々の生活に彩りを与え続け、その歴史は紡がれ続けていくでしょう。
和田農園の「やりすぎトマト」は桃太郎の元祖となる品種を厳しい環境で育てたアスリート野菜です。
甘くて濃厚な味わいの「やりすぎトマト」を味わいながら、トマトの歴史、進化に思いを巡らせてみるのはいかがでしょうか?